アメリカで売れた日本製スピーカー(楽しいB級オーディオ)


ネタが無くなったらなんでもやります!!(笑)


以下はHPM-100!関連記事です!
☆バート N. ロカンシーは1970年にJBLを去り、最初にALTEC、次にGAUSS、そして米国パイオニアに移籍 した。パイオニアではHPMシリーズの開発を引き受けた。(画像はHPM-100)
☆スピーカー王国アメリカでHPM-100が脚光を浴びている。フォルクスワーゲンの奇跡を思わせる衝撃。 いいものは素直に受けいれる、アメリカの反応は早い。上陸後わずか1年そこそこのHPM-100に市民権を 与えたのだ。これは、またたく間にクルマ王国アメリカに君臨してしまった、フォルクスワーゲンの奇 跡に似ている。事実、ここ2、3ヵ月の間「HPMシリーズ」は群雄割拠のアメリカで、たえずトップを争 っている。頑固なまでの個性が、彼らに受けいれられたのだ。

☆「生半可な妥協が協されるくらいなら、およそ個性など存在しない。」B.ロカンシー。
☆「世界中の人たちの共感を呼び起こすスピーカーはつくれないものだろうか・・・」こうして1975年の 4月、HPM-100開発のプロジェクトチームが結成された。そのスタッフの中に、ひとりのアメリカ人技術 者がいた。JBLの技術担当副社長として数々の名器を手がけたB.ロカンシーが、技術顧問を務めたので ある。彼は頑固そのものだった。スタッフの感性とB.ロカンシーの感性はたびたび衝突し、その度に技 術的な検討と試聴がくり返された。試作したスピーカーは、実に200台を数えようとしていた。しかし 彼らは、安易な妥協はしなかった。もし、そうしていたら、稀に見るこの個性は生まれなかったに違い ない。HPM-100。それは、アメリカが共感した個性。
個性、共感し過ぎたらこうなる?

うっ~~!!
それが、、アメリカ~(^^♪)



それが、、アメリカ~(^^♪)




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